会 場
LOGOS GALLERY
ロゴスギャラリー 渋谷パルコ パート1/B1
期 間
2004.04.08 (thu) − 04.26 (mon)
(会期中無休)
10:00am - 9:00pm
(但し、最終日は5:00pmにて終了)
お問合せ
03-3496-1287
(ロゴスギャラリー)
入場料
無料
企画・協力:
日月堂/ムラカミ家の人々ほか
昭和初期、東京山の手にある分譲住宅に移り住んだムラカミ家三代に暮らし継がれてきたモノたち、着物、食器、台所用具、電気製品、本、家具などを通して見る、家族の物語です。これらのモノを目にし、手にすると昭和という時代断片が、あるいはその風景が見えてくるのではないでしょうか。
お嫁入りのために誂えられた戦前の豪華な振袖や丸帯、戦禍をくぐり抜け知人から譲られたお雛さま、戦後生活にゆとりができてきた頃の銘仙や大島のおしゃれな外出着、出生不明のテディベア、アメリカ帰りの親戚から譲られたメイド・イン・ジャパンの洋食器、スタイリッシュなヤカン、子供の成長を記録再生するため当時としては高額であったテープデッキ、アールデコ調のモダンなデザインの火鉢、先祖代々伝わってきた由緒ある陶器類や硯箱、などなど約200点がそれぞれが雄弁にモノ語ります。
物語をモノ語ろう
JRとJRのターミナル駅を繋ぐ私鉄の小さな駅を降り、駅と同じように小さな、けれど雑踏とは無縁の落ち着いた商店街の途中を折れ、歩いて五分程のところにムラカミさんのお宅はあります。
明治38年生まれのテツオさんと一歳年下のトキさん、そして当時三歳の長男カツヒロさんのムラカミさん一家が、昭和8(1933)年にここに移って来て以来、三代に亘って暮らしてきた家です。とても大きなお宅です。
いま東京の「山の手」と呼ばれるこの一帯は、大正11(1922)年頃から鉄道の敷設とともに宅地分譲が始められたそうです。現在は立派な邸宅の並ぶこの一帯も、転居した当時は周り一面スイカ畑、泥棒よけの夜警小屋が置かれていたとか。
テツオさんがもとめたお宅は当時の建売住宅。天井は高く、間取りはゆったりと広く、欄間や障子の装飾・細工や杉材を使った天井など、いまも売り出し当時の佇まいと、当時の丹念な大工仕事の跡をあちこちに残しています。そんなムラカミさん家の周りにも、やがて住宅が建て込んできます。その背景には、昭和12(1937)年の日中戦争開始による軍需景気がありましたが、それは同時に、戦争の影が迫っていることをも告げていたのです。
昭和20(1945)年、東京は大空襲に見舞われます。B29による爆撃で、近くの商店街もまた焼かれてしまいました。ムラカミさんのお宅の前の道路にも、焼夷弾が落とされましたが、幸いにも周囲の生垣が火を防ぎ、家は無傷で済んだということです。
誰もが無縁ではいられなかった戦争も、やがて終戦。昭和5(1930)年生まれのカツヒロさんは、大学の仏文科に入学、ここで後にお嫁さんに迎えるヒロコさんと、同級生として出会います。ヒロコさんは元貴族院議員を祖父にもつ名家出身ながら、敗戦はそれを無にしたといいます。しかし一方でそれは自由をもたらしたものなのか、ヒロコさんはまだ女性の少なかった四年制の大学で学業に励みながら、詩作にいそしみ、後に詩集を上梓、合唱曲の作詞などでも知られるようになるのです。
カツヒロさんとヒロコさんがその恋愛を成就、めでたく結婚されたのは昭和32(1957)年。新婚生活はアパートでスタート、「モダンな生活」の先端・象徴として憧れの的となった売り出し始めの公団団地に移り、昭和37(1962)年にユミさんという新たな家族も誕生しました。
昭和40(1965)年、家の増改築をきっかけに、カツヒロさん一家もテツオさんのお宅、つまりいまのムラカミさん家に落ち着きます。こうして三世代での生活が、その後39年間続くことになりました。平屋に二階を増築するなど、三代・70年に亘る暮らしの間には増改築も何度かあったと聞きますが、いまもゆるぎない家のつくりは、昭和初めの大工さんたちの仕事の確かさと、そこに住まう人たちの家へのいたわりの証しでしょうか。
ムラカミ家には、今、カツヒロさんと、娘のユミさんが、「ママ猫」と名付けられた猫とともに暮らしています。とても静かな生活です。家の周りには幅広い道路が碁盤の目のように敷かれ、今も都心とは思えない、広々とした空があります。
ヒロコさんのお嫁入道具。好きな布を貼り、刺繍を施した箱ですが、きっとお気に入りの品々を入れていたのでしょう。
三種の神器と言われた冷蔵庫用で麦茶を冷やすため、収まり具合のいいように作られたヤカンですが、今ではとってもモダンでスタイリッシュなデザインです。