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「ビックリハウス」なんて知らない!
1974年12月末、誰に予言されることもなく密かに渋谷の町で誕生した「月刊ビックリハウス」。あれから、2004年で創刊30年目となります。70年代から80年代の11年を迷走した「ビックリハウス」が、今では幻の元祖サブカル雑誌として語られるようにもなっています。そしてあの頃ともかく面白がって一緒に遊んでくれたみんなが、いまではスゴイ人、偉い人になってしまったということも、当然というか、いややっぱりビックリといっていいでしょう。しかし、85年10月(130号)の終刊からすでに、20年近くの歳月がたった今、「ビックリハウスなんて知らない!」といった若者ばかりの時代となってしまいました。そう「ビックリハウスなんて知らなくていい」。でも、だからこそ、今こそ、「ビックリハウス」というひとつの雑誌が、時代にどうインパクトを与え、若者文化にどうクリエイティヴなセンスを送り続けたかを、もう一度みんなで一緒に、熱くメッセージしたい。そんな気持のラストチャンスかな?教育的にではなく、享楽的にね!「ビックリハウス」は、やっぱり面白かったヨ!
「ビックリハウス」とは何だったのか!
ときどき飲んだりしている時に、『ビックリハウス』の話が出たりする。50代から、30代中頃くらいまでの人間は、それを知っている事が特権のように、うれしそうに語り出す。「ビックラゲーションに、のったことあるんですよ」とか、誇らしげに「私、イトイさんの『ヘンよい』の、単行本持ってます!」とか、「おれ、オモコ、好きだった」とか、「え!○○さんもハウサーだったの!」とか。ところがもっと若い人にはそれが何のことかさっぱりわからない。「なんですか?それ!」みたいな反応だ。「いくつ?」「私ですか?80年生まれです!」「昭和?」「まさか」「そーか、『ビックリ』がなくなったとき5歳か。それじゃあ、知らないよね」こんな世代が若者の代表になった時代なのだから、70年代、80年代若者だった私たちが、おやじや、おばさんになってるわけだ。しかしこんな会話の中で、私たちが少し自慢げに話しが出来るそのわけは、『ビックリハウス』がみんなで作った時代の気分を満載したメディアだったこと、そうしたものが今、まわりを見渡してもあまり見つからないこと、そこには、のちにパレットクラブを名乗るペーター佐藤、原田治、安西水丸、秋山育、100%スタジオを組んでいた湯村輝彦、矢吹申彦、パルコの顔を描いていた山口はるみ、人気急上昇のワークショップ・ムッ!(真鍋立彦、中山泰、奥村靫正、立花ハジメ)、ノスタルジー・コミックスのような鴨沢祐二、可愛いマンガを描いてくれた西村玲子、といったイラストレーターが住みつき、鈴木慶一とムーンライダーズ、YMOの細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏、そのあと忌野清志郎、あがた森魚、巻上公一が遊び、ハウサーだった大槻ケンヂ、『ビックリハウス賞』受賞のタモリ、まだ多摩美の学生だった竹中直人、新進の映画評論家おすぎ、『エビゾリング賞』で審査してくれたビートたけし、『エビゾリ』で登場したとんねるず、今でも『御教訓カレンダー』の選考をしてくれている糸井重里、ほかにも寺山修司、三浦雅士、栗本慎一郎、村上春樹、橋本治、高橋源一郎、浅田彰、日グラ(日本グラフィック展)で大賞を獲った日比野克彦、ハニワ漫画を書いたみうらじゅん、そして最後のほうに現れた消しゴム版画のナンシー関、そして初代編集長萩原朔美、花編アッコこと高橋章子、『ビックリハウスSUPER』や『GOCOO』『BH』『日グラ』担当の榎本了壱などなど、名前を挙げだしたらキリがないほど、たくさんの人が一緒に住み、遊んでくれた。その『ビックリハウス』を知らない!世代に向けて、あるいはわれわれ自身の同世代に向けて、あらためて、生誕30周年を記念して、『ビックリハウス』とはなんだったのかを、懐かしく、新しく、問いかけ、掘り起こしてみたいと思います。
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